秋葉原の由来
- 2018-10-28 初版
- 2018-11-26 第2版
- 2023-02-04 第3版 記憶の証拠写真募集
あきばはら->あきはばら
- 皆さんご存知の聖地、秋葉原。
- 昔は「あきばはら」と呼ばれていたことをご存知でしょうか?
- 何をバカなことを言っているのかとお思いの方、先入観はいけません。
- 歴史を知ると面白いです。
- 秋葉原の成り立ちについて、解説しようと思います。
秋葉原駅、電気街口
江戸時代
- 江戸時代、平川(江戸時代に神田川へ改修工事)周辺に火除地(ひよけち)を設けていました。
- 火除地とは火事の延焼を防ぐ空地です。
- 当時の火事は町ごと燃える大火でした。特に火事といえば神田かと言われるほど頻発していました。
- ※神田とはその名の通り神様の田んぼ。古くから全国にある。神田の土地を掘り進めたので神田川(人工の川)となった。
- ※江戸時代の初期は湿地帯であったため堀や河川の改修工事が盛んに行われた(元荒川、古利根川などは名残)。日比谷あたりに海岸があった。
- 消防車はなく、水で消すなんてできませんでした。
- 家を壊して延焼を防ぐのが、当時の手段でした。あとは逃げるしかありません。
- そこで、神田川など開けた土地で延焼を防ぐしかありませんでした。
- 古地図(江戸切絵図)を確認すると、神田川周辺にいくつかの「火除地」を見つけることができます。
- 江戸切絵図
- 神田川には「昌平橋(しょうへいばし)」と「筋違橋(すじかいばし)」がかかっていました。
- まだ「万世橋(まんせいばし)」はありません。
- 「筋違御門(すじかいごもん)」と「昌平橋」の間に、「八ツ小路(八辻原)」と呼ばれる「火除御用地」がありました。
- 今の神田郵便局付近です。
- 広重の描いた「筋違内八ツ小路」が有名です。
- 広重の描いた「昌平橋」が有名です。
- 昇斎一景東京名所四十八景 「筋違御門うち凧あそひ」
- 筋違八ツ小路(挿絵)
- 神田川の土手には柳が植えられていました。
- 今の秋葉原周辺に武家屋敷がありました。
- 絵本江戸土産 10編
- ※湯島聖堂に大成殿(孔子廟)を建てるにあたり、孔子の生地である「昌平郷」にちなんでこの地を「昌平」と名付けた。
- ※「昌平橋」の前は「相生橋」と呼ばれていた。
- ※政府直轄の昌平学校が建てられた。これが後の「大学」になり教育発祥の地と呼ばれる。その後、跡地が師範学校になる。
現代の八ツ小路(2018年撮影)
万世橋からみた昌平橋(2018年撮影)
昌平橋からみた万世橋(2018年撮影)
大成殿(2018年撮影)
孔子像(2018年撮影)
明治時代
- 明治2年12月12日(1870年1月13日)の神田大火を鎮めるため、明治3年10月15日に鎮火社を現在の秋葉原駅付近に建てました。
- ※明治5年まで旧暦を使っていたため西暦と約1カ月ずれる。資料によれば出火場所まで判明している。原因は怪火とあり不明。九千戸焼けた。
- ※明治2年12月27日。銀座数寄屋橋でも大火。三千戸焼けた。火事が頻繁であった。町ごと焼失する大火であった。
- 東京市史稿(変災篇、ページ976)
- 東京市史稿(変災篇、ページ977)
- 明治24年(1891年)の古地図に「秋ハ杜」を見つけることができます。「花岡丁火除地」とも書かれています。
- 大日本東京全図(明治24年)
- 江戸時代の大火の際には秋葉山(静岡県)の山岳信仰である火難除けの秋葉神社が全国に建てられました。有名でした。
- 鎮火社をこの秋葉神社と勘違いしたらしいです。鎮火社と秋葉神社の関係は見つけられませんでした。
- 鎮火社は明治6年に神田明神の管轄となります。
- そして神社の周辺を「秋葉の原(あきばのはら)」と呼んでいたようです。
- 空地でした。
- ちなみに秋葉(あきは)です。読みも勘違いしています。
- その後、鎮火社の地に秋葉原駅(貨物駅)を建設するため(1888年、明治21年)、台東区に移転し秋葉神社と改名しました(1930年、昭和5年)。
- ※市場があり、輸送のための貨物駅でした。
- 明治に入り武家屋敷はなくなり、跡地は旅籠屋(はたごや)になりました。今でいう旅館です。
- 「昌平橋」「萬代橋(よろずよばし)」「萬世橋」(よろずよばし)は洪水や関東大震災(大正12年、1923年)で何度も場所を変えて架け替えられました。
- 「筋違橋」はなくなり、「萬世橋」から「万世橋(まんせいばし)」と呼ばれるようになりました。
- このように勘違いから「秋葉原」の地名が始まりました。元をたどると火事が要因でした。
昭和時代
- 東京大空襲(1945年)で神田は甚大な被害を受けました。
- 戦後のヤミ市でラジオの部品が売られたのが始まりです。いわゆるジャンク屋です。
- ※ジャンク(junk)とは「がらくた」という意味で動作保証はありません。自分の目利きだけが頼りです。
- ※ジャンク品が動かなくても文句を言ってはいけません。自分の修理の腕がないだけです。自信がないならジャンク品を買ってはいけません。それが暗黙のルールです。
- 秋葉原の歴史
- 貴重なラジオセンターの写真
- 秋葉原の由来(秋葉原電気街復興会)
- GHQのヤミ市閉鎖命令により有志が集まり、ラジオセンター、ラジオデパート、ラジオストアー(平成25年11月30日閉館)が建設されました。
- この他にもラジオ会館、ラジオガーデン、ニュー秋葉原センター、などにジャンク屋がありましたが徐々に姿を消しています。
- 秋葉原は電気屋(ラジオ、テレビ、オーディオなど)の集まる電気街となりました。
ラジオセンター(2018年撮影)
ラジオデパート(2018年撮影)
平成時代
- AKB劇場、メイド喫茶が登場し、オタクの聖地ともなりました。
- つくばエキスプレス(2005年)が秋葉原を起点に開業しました。
- JR駅の建て替えや町の再開発も進み、整備されました。
- 秋葉原は外国人の立ち寄る観光地となり、爆買いも起こりました。
- 一時期、日曜日の歩行者天国が中止されましたが、復活しました。
メイドカフェのビル(2018年撮影)
AKB48 カフェ&ショップ(2018年撮影、AKB48劇場は別の場所にある)
記憶の証拠写真募集
- これは筆者の記憶でしかなく、証拠がないので語るべきか迷っていた。
- 「あきはばら」でなく「あきばはら」であった明確な記憶がある。
- 建て替える前のJR駅構内で地下に向かう駅名の看板にローマ字で"AKIBAHARA"と書かれていた。
- この看板だけ"AKIBAHARA"と書かれていたので、何かの間違いだろうとずっと思っていた。
- 学生時代、頻繁に利用しており、この看板だけ違っていたので覚えている。
- 下地が青か緑の看板であった。暗い場所であった。
- 当時でさえ古く感じた。おそらくここだけ看板を替えるのを忘れたものと思われる。
- 当時はまだ携帯電話の普及する前であり、デジタルカメラもなかった。
- そのため証拠写真がない。
- 鉄道ファンや写真家で旧JR(国鉄)秋葉原駅のこの看板を映した貴重な写真をお持ちの方はいないでしょうか?
- この一か所の看板だけであり、ホームの看板ではありません。
- 場所は地下へ向かう通路だったように記憶しています。
- 記憶の答え合わせはいかに。
ジャンク屋
- 秋葉原の記憶といえばジャンク屋。少し記憶を語ってみよう。
- 記憶間違いもあるかもしれない。時は昭和である。トランジスタ・ラジオやテレビが普及し始めたころである。
- 駅前ではバナナのたたき売りよろしく、なんか実演販売していた。
- いまのような綺麗な町ではなかった。まだ砂利道だった。
- バラック(平屋)のジャンク屋がたくさん並んでいた。トタン屋根で雨が降れば雨漏りした。
- 全部、中古部品だった。新品のほうが珍しかった。
- 国際電気が角にあり、路上に部品を並べて売っていた。ここを目印にしていた。
- 秋月は今の場所ではなく、一つ通りが違っていた。一本、線路に近い側にあった。
- どこからか中古が回ってきて、店で解体して販売していた。だから毎日品物が変わる。
- どこに何があるかはジャンク屋を回ってみないと、わからなかった。
- 秋月、亜土電子、千石、鈴商、ラジオデパート、ラジオセンター、ラジオ会館、小沢電気、若松を一回りするのがコースだった。
- マグロ市場の仕入れのように、なにが使えて使えないのか、目利きが必要だった。
- たとえ動作しなくても文句を言ってはいけないのが、暗黙の了解(ルール)であった。
- わからないことは店主から教えてもらった。トランジスタの互換部品の見つけ方やコンデンサの種類や耐圧など身をもって知った。
- なにせ何が正解なのかわからない世界だった。混沌としていた。
- 年末になると部品を詰め合わせた福袋を売り出した。当たりはずれのある福袋である。
- 何もかも珍しく、ここでしか手に入らないので通い詰めた。LED,CMOS,CPU,SRAMが出回り始めて面白かった。
- 雑誌の広告をみて通販するのも楽しかった。当時は切手で買えた。
- 今のようにインターネットはなく、即座に買い物するなんてできなかった。
- 部品の変化や町の変化など時代の流れを見てきた。
- 10年で大きく様変わりし、それを何度も繰り返していく。
- オーディオの時代、パソコンの時代、ブームが起こっては消えていく。
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